インドにその源を発する観音信仰は、仏教の東漸にともなって中国、朝鮮、そして日本に流伝した。特にわが国においては、きわめて古くから、また、各時代を通じて観音信仰は継承され、やがて全国津々浦々に至るまで浸透、それゆえに民衆信仰を代表するものとなっている。
だから現存するあらゆる仏像の中で、観音像がもっとも多数を占めており、また、観音信仰の縁起や説話のたぐいも多く語り伝えられ、信ぜられている。
この観音信仰の基盤をなす代表的な経典は「妙法蓮華経」の中の「普門品第二十五」であるが、真心をもって一心に観音の御名を称えれば、その音声を観じてたちどころにわれわれの苦悩を観音菩薩は救いたもうとある。
そして、その慈悲心のおはたらきが、姿を三十三種に変じての救いとなっているといわれるのである。
この三十三という数に合わせて始められたのが、三十三観音札所巡りである。
これは観音さまへの帰依のあらわれのひとつとして行われているもので、したがって札所から札所への祈りの中で救われた人も無数といわれる。
しかも永い年月の間に、そこには納経・ご詠歌・笈摺など独特の習俗を生み、現在でも多くの人々によってそれが伝承されていることは、巡礼が国民的信仰であることを物語っていよう。
では、この観音札所巡りの信仰は、いつの時代から、誰によって創唱されたものであろうか。
伝説によれば、巡礼の始めは大和長谷寺の開山徳道上人が養老年間(717~723)に閻魔大王の勧めによって発願、多くの人々を誘ったことにあるという。だが誰も信じようとしないので、そのままとなっていた。やがて約二百七十年後のこと、花山法皇が石川寺の仏眼上人・播州書写山の性空上人を先達として、自ら巡礼なされ、これを中興したというのである。
この両者に関する巡礼創始、中興の話は有名で、室町時代の禅僧の語録である『竹居清事』や『天陰語録』などにも明記されており、かなり以前からの伝承であることが知られる。しかも、少なくとも江戸時代まで大多数の人がこれを史実として疑わなかったことは特筆すべきことである。
特に至尊の身であらせられた花山法皇が、実際に歩まれた道を、そのままに辿るのだという敬虔な気持ちと誇りとは庶民にとって、大きな心のささえであったろう。だから、多くの札所縁起が花山法皇の巡錫を記しているのもうなずけるのである。
その意味で観音札所信仰の中で、一千年を経た今日においても、法皇は今も生きつづけておられると申してよかろう。
しかし、史実のうえでは、近江三井寺の覚忠大僧正が、応保元年(1161)近畿地方に散在する三十三カ所の観音霊場を七十五日かけて巡られたのが、その創始であるといわれる。それは三井寺僧侶の伝記を集めた『寺門高僧記』の記録によるところである。したがって観音札所巡礼は、平安末期の創始で、修験者たちによるものであることが知られる。そして札所のうえに「西国」の二字が冠せられるようになったのは、鎌倉時代、東国の人々の呼称によるものであったろうと推定されている。
この東国人の西国札所に寄せる熱い思いは、やがて坂東札所の制定へとつながっていったのであり、この坂東札所の成立を前提としてのみ「西国」という二字の意味が理解できるのである。
では 坂東札所の歴史について触れてみることにしよう。